業務量を確保するということ
年が明けました。
年が明けると、毎年、去年は何を思っていたのかと、
Googleカレンダーを見返します。
去年の今頃は嫁と一緒に、隙間風の通るアパートで、紅白歌合戦を見ていました。
私は早めに酔いつぶれ、年を越す前に寝てしまったことを覚えています。
あの時は妻も、まだ私と住むことに抵抗があった時期です。
人と住むのはやっぱり私には向かないと言っていました。
たぶん無理を強いたのは私のほうなんだな、と今では思います。
今思えばデリカシーのかけらもなかったし、プライベートも何も、ぐっちゃぐちゃにしてしまっていました。
去年は、ちょうど嫁とディズニーにも行っていました。
どうしてもパステルカラーのキャラクタ(ジェラトーニ?)のぬいぐるみが欲しいとかなんとか。
全然楽しく面白く。
で、その3か月後の2020年3月に離婚に踏み切ります。
そのとき、人生踏み外したなと感じました。
私の中で、唯一入ってはいけない、「どうにでもなれ精神」が発動しました。
私は、ぶっちぎりの電気電子、情報の知識を持ち合わせ、最先端開発というバックグラウンドを持ちながら、海外留学や海外旅行を弾丸でかますような輩です。
そんな私が、独身になり、いわば守るものがなくなったのです。
そこから、大きく歯車が回り始めました。
嫁には散々迷惑を掛けました。
私と別れて彼女は正解だったと思います。
転職エージェントに勧められS〇NYへ面接に行きます。
無事内定をもらって、安心していましたが、ふと我に返ります。
あれ、これって地元に戻るチャンスじゃねえ?
完全にスイッチが入ってしまいました。
S〇NYの内定を蹴り、即刻で故郷の愛知に帰りました。
3月上旬、帰ってからの私は壮絶でした。
3月中旬には、親戚の知り合いの通信会社とつながりました。
3月下旬には、本格的に個人事業主として通信会社の請負業務を始めました。
4月1日、私は開業届などの手続きに入りました。
そこから東京で培った社畜精神を全力でふるまいます。
東京のT社最先端技術部門で、優秀と言われた精神力です。
爆発的な業務遂行力と技術力を武器に、自ブランドを引き上げるように専念しました。
休み?そんな甘ったれたことを言っている暇はありません。
仕事の鬼って見たことある方はわかると思いますが、もはや意地と狂気に満ち溢れています。
でもやっぱり自分で事業を進めるとわかります。
雇われではわからない、マネジメントの面、精神面、売り上げなどの数字、顧客の対応など。
いい勉強をさせていただいております。
最近思うこと。
やっぱり私が思いついて行動することは何かあるということです。
思い付きで行動して、「しまったやめときゃよかった」と思うことは全くなく、
常に運がよく、常に楽しい状態が回ってきています。
そしてやっぱり、「人」。
人が必要になってきます。
人が一番難しく、厄介で、ただ一番欲しいもの。
人が一番面白く、頼りにしたい、信じていたい、固く強固なものに、かつフラットな関係ににしたい。
人間なんて頼りにしなかった人生から、大きく転換を迎えさせてもらっています。
人が増えればもちろん、その人たちの業務量(売上)を確保しなければなりません。
人増えたから楽になった!はダメです。
業務量を増やすには上層との信頼関係、依存関係が重要になってきます。
彼、彼女指導のもとのチームなら、業務量増やしてもコミットメントが保てるな。
そう思わせたら勝ちなのです。
たぶんこれは今年の初旬の課題になると思います。
今日はここまで。
元嫁について思うこと
もう誰にも言えたものじゃありません。
元嫁のことは、まだ愛おしいし、可愛いし、未練たらたらです。
いまから4年前。
新卒で、東京にある世界有数の総合電機メーカーに就職しました。
私は、仕事が好きでした。
プログラマの仕事(バグ対やデバッグ作業)に追われ追いかけ、毎晩終電が当たり前。
早く帰れる日は、会社の誰かと管を巻いてました。
会社の人と仲良くなることが、コミュニケーションの真骨頂だと思っていました。
25歳にして年収450万円。
高卒サラリーマンにしては、そんなに悪くない給料だったと振り返って思います。
ただ、心はどんどん寂しくなっていきました。
通勤電車の中、だんだんと深いため息が止められなくなる日が多くなりました。
なんかよくわからないけど、ちょっとしたことで風邪をこじらせました。
でも会社の人と苦い業務をこなしている間は楽しかったのです。
ある日、突発的な難聴、体がふらふらするなどの、三半規管の障害が発生しました。
これはダメな奴だなと、3日間の休みをとり休みました。そして休めば、治りました。
また、元気に働き始めます。
ふと思った。
この心のエラーはきっと、マズローの欲求ピラミッドでいう低次欲求が満たされていないんだなと思うようになりました。
だって、高次の承認欲求は会社でバリバリ得られていたんですから。
食べたいと思ったらすぐ食べるようにしました。
飲みたいと思ったらすぐ飲むようにしました。
精神安定のために強制的にジムも開始しました。
睡眠時間をお得意のスマホで管理しました。
すべては完璧でした。
しかし何かが違う。
まだ心が何か言っている、ため息が止まらない、何のために生きているのかわからない。
一人でいるのがつらくなってきました。
親戚一同仲良く暮らしていた故郷とは打って変わって、東京ではレオパレスで独りぼっち。
ふと気づくと、社会という名の、消耗戦の真っ只中にいることに気づいたのです。
この事実に気づくまで2~3年。
そのあとおとなしく帰郷すればよかった。
しかし私はそうはならなかった。
私は女性経験が薄かった。
そこに漬け込むように、夜の街にはまり始めました。
ただ目が覚めるのも早かった。
その次に、まともになろうと、婚活を始めた。
それが教科書に載っている正解と呼ばれる人生、結婚への最短ルートだからです。
たくさんの人と話しました。
そこで気づいたことは、私はあまりにも模範的、デジタル、冷徹、業務的に生きていたということです。
心にうそをついていた、といったほうがいいかも。
そこで元嫁に会います。
元嫁はどちらかというと元気はなく、どちらかというと消極的で、インドアで、私とは真逆でした。
私はべたぼれでした。
散々連れまわして、両親にも挨拶して、ディズニーも、旅行も、ガンガン行きました。
そして1年後に結婚式を上げました。
そして新婚生活1年を待つ前に離婚しました。
そう。
あなたの想像の通りです。
私は私のスタイルを崩さず、元嫁を侵食しすぎたのです。
元嫁は実家の自室から出てこなくなりました。
両親からは、どちらも悪いとも言えないが、娘のためにあなたを止めるわけにはいかない。
離婚を選択したほうが賢いと言われました。
なんだなんだ?、私のスタイルが気に入らないなら仕事も全部やめてやる‼
全部やめました。
で、元嫁にまた話しに行ったら、もうすでにNG。
もう一回やり直そうと言いましたが、もうダメです。
義理の母親は泣き始めます。
もう、私は、東京で一人暮らしや再就職をする気なんて起きません。
鉄壁の心で何とでもできましたが、何かそれじゃない気がしたのです。
私はおとなしく離婚届けを出し、退職届を出し、帰郷することにしました。
結局、東京にあこがれて乗ったN700系は、最後、私をこんな思いで帰郷させるのです。
人の人生を狂わせて、自身の体を壊しかけて。
何をしに行ったのか。
そんなことを考えたら涙が止まりませんでした。
嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で仕方がなかった田舎に、自ら帰るのです。
馬鹿な話です。
前はあった、ギラギラしたプライドも、どこかに行ってしまいました。
実家に戻ったのは10年ぶり。
いまは25歳。
高校は、全寮制だったため15-16歳の時に実家を出たままです。
壮大な国内留学だったな、と思いました。
実家の両親も事情は重々分かっています。
何も言わず2週間飯を食わせてくれて、あとはひたすら寝てました。
今でも忘れない。
あまりにも壮絶すぎるこの思い。
元嫁には迷惑かけて申し訳ないと今では思います。
今日はこのくらいで。
はじめまして
今年も終盤になってきました。
寒さが近づけば近づくほど、年の暮れを感じ、どこか侘しい気分になります。
今日この頃、とくに今年に入ってから、私自身の周りの状況がかなり変わりました。
- 楽しい新婚生活だったのに離婚したり、
- バリバリ24時間働いていた会社を退職したり、
- あこがれて住み始めた東京から愛知に帰郷したり、
- 自分がやるとは思っていなかった自営業を始めたり、
- 私は公共交通機関で生きていくと思っていたのに自動車を購入したり。
とりあえず、盛りだくさんです。
ざっくり書いているだけでもかなり精神的に応えることも多く、
かなりクネクネと、グチグチと、悩みました。
いまは自分なりに納得し、日々生活をしています。
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